昭和44年05月05日  夜の御理解



  人それぞれに天地の親神様の思い願いというものがかけられておる訳です。その願いが一人一人の氏子の上に成就して行く時、天地の親神様の感動、神様のお喜びがあると思うですね。けれどもそこんところをそれたり、そこんところが分からんなりに、一生を終わって行くという人達も、沢山あろうかと思います。私今テレビを見せて頂いておりましたら、あれ何て言うでしょう、若い歌手の方が主演しておる映画があっておりました。何か田舎から出てきて、新聞社かなんかへ勤め。
 そして今日の所は、その下宿を頼んでおった下宿が見つかって、その今日は新しいその下宿の所へ行くところがあっておりました。もう何回も続いておる映画らしいんですけれどね。私そこん所を初めて見たんですけれど、その下宿に行って、その部屋の横にね、何ですかあれはギターですかギターがこう置いてあった。それがあのう好きなものですから、それをこう持ってギターを弾きながら、歌をいわゆる得意の歌を歌う場面がございます。勿論恐らくその映画の筋というのは、今人気まぁ絶頂という様な。
 若い歌手の事ですからその人を主演にしたのですから、恐らく田舎から出て来た人が、まぁ多くの人に認められて、そしてまぁ人気歌手になって行くというような、筋の映画であろうとこう思いますが、今日初めてその自分の言うなら得意とする、その楽器を握って歌を歌う。その下宿の人達がそれを聞いてびっくりしておる、ところの場面で終わっておりましたが、私はその部屋のすみに立て掛けてあるそのギターをこう取ろうとする時ですね、もうどうにも出来ん感動を覚えたです。
 何んでもないそのいわゆる一齣ですけれどね。私はもうそこん時にもうそれを見とってから、とにかくおかしなぐらいに感動するんですね。これから本当に所を得ようとしておる、場を得ようとしておる、その切っ掛けがそこへ出けた。そういう時にですね。私神様がお喜び下さるんだと思いますね、教祖様があぁいう手厚いご信心、そしてしかも好きである、信心が好きとこう仰る様に、信心好きな信心が段々成長していく。そして様々なところお通りになられて、天地の親神様からご依頼を受けられる。
 立教神伝を受けられる、あの辺の所にですね、もうそれこそ探しに探しに求めに求めておった、教祖様を発見された時、の天地の親神様の感動という様なものがですね、あの御伝記なんかにも、そこんところを読まして頂きますと分かるのですけれども。あれが例えば百姓で終わられたんでは出来なかった。いわゆる金光教の教祖開祖として、おかげを受けられるその切っ掛けが出来られた時に、なるほど天地の親神様がね、感動しましましたということを思います。
 お互い信心をさせて頂くその信心がです。只自分の考え自分の思いがねお取次ぎを頂いて成就したからというて、信心が有り難いというて、その有り難いというその程度の信心で、もし一生その信心が終わったら、こんな残念な事はなか。いや神様が残念に思われる事だろうとこう思うのです私でもそうでした。私はもう根っからの商売人ですから、もう終生商売で終わると自分でも思うておった。お繰り合わせを頂いて大きな商売にならしてもろうて、大きな御用でも出来る様な信者にお取りたて頂きたいという。
 これはもう念願でした子供の時からの念願でした。ところが神様はね商売にするよりも取次者にした方が良いという御神意がね、私の言わばお商売をさして頂く中に取分け、引き揚げて帰ってからのお商売の上には、神様がもう実にもう見事にですね、あらゆる場面場面に生き生きと働いて下さって、「はぁこの調子で行きゃぁおかげが受けられるぞ」と思われるくらいに、まぁおかげを頂いたんです。
 そこで天地の親神様は私にですね、金光大神を通して、神様の働きがこのようにも間違いないもんだという事を、十分分からして下さった頃から、反対の事になってきて、お商売が出来なくなり、そして私の取次ぎによって人が助かるといった様な事になって来た。そこ辺のところの切っ掛けをですね、神様は作って下さる。私はもう私はこれからいよいよおかげを頂いて行けば行くほどです、神様がまあ言うならば「見当違いを俺はしてはいなかった」と、また言うて喜んで下さるだろうと私は思うんです。
 お互いそれぞれにですね、どんな人にでもその人その人の、やはり神様の願い期待というのがある筈なのですから、その神様の願いにピタッとくるおかげを受けなければ駄目だということです。そこんところを神様いわゆる神様とてもその者をずばりにスパッと「お参り始めたら金光様の先生になれ。」なんていう様な風に仰る筈はないのです。様々な自分でそれを気付かしてもらい、そういう様々な神様の間違いなさを通らしてもろうて、おかげを頂いていく訳です。
 ですからやはりここでいつも言われます様に、私共の小さい言わば願いが成就するという事もですけれど、その願いが成就の事によって神様を知り分かり、その神様の願いである、皆さん一人一人にかけられる願いというものが、成就致します様にという願いを、根本的には持たなければいけないという事が分かります。例えばなら日吉なら日吉という人がある。なら日吉なら日吉という人を、神様が言わば小さい時から信心に育てて下さった。だからそこん所からですよ。只自分の願いだけを言わばもう神様の働き。
 神様のおかげというものが分かったのですから、もうぼちぼち神様が私に掛けられる願いというものは、どういう事か分からないけれども、その願いが成就致します様に、その為には起きて来る問題と言うか修行と言うか、そういうものにへこたれる様な事はありません。これは私の言わば願いでもあったね。商売人と思うて一生懸命お願いしよるおかげを頂いて来たけど、その好きな商売が出来なくなった。そこで私は荒巻先生ですたいね、親先生にお取次ぎを願わして貰うて。
 これはどんなに考えても可笑しい。これ程私のまぁ言うなら言いなりの様なおかげを下さっておった神様が、ぱったりここにそういう願い右と願えば左、左と願えば右という様な事になってきたという事は、こりゃ神様の願いはある、私に掛けられる神様の願いがある、その掛けられる願いが成就致します事を願わして貰う。その為にその成就の為に起きて来る修行なら、どの様な修行でもいといませんという、信心がそこから始められた。そういう風に気付かしてもらった時。
 私は神様が私が丁度今日、その何て言う何とかアキラって言うんですかね。その人が初めて下宿に行って、隅にあったそのギターを取って自分の得意である所の、楽器を握って歌を歌った時にですね、はぁこれからこの人の本当の言わば晴れの舞台と言うか、本当のおかげが頂けれる切っ掛けがここにあったとこう感じた時にです、私が感動致しました様に神様が感動まします。その感動がそこからいよいよ本格的におかげの、本当の意味でのおかげの受けられる信心が。教わり下さる事になるのとこう思うのですよね。
 ですから何といってもとにかく第一に入信のおかげを頂いた。金光様を知ったと。そこからですねいわゆるもう私共は、いよいよ幸せになれる切っ掛けを作ったと。人間真実の幸せのおかげの受けられる切っ掛けが出けたんですから、そこの切っ掛けを切っ掛けとして、私はおかげ頂かなければならんのに、切っ掛けが出けた信心しても何十年にもなるけれども。やっぱり自分の事を願い続けて行くという様な信心ではです。折角の切っ掛けもチャンスも台無しになるだけではなくて。
 それをご覧になる神様が、どのようにか残念に思し召す事であろうと私は思います。その辺が分からして頂いたら、私はどうぞ天地の親神様が一人一人の氏子にかけられる願い、そういう願いが成就致します様に、神様が私にかけられる願いが成就致します様にといった様な信心から、人間本当の幸せの切っ掛けがそこから展開して来ると私は思いますね。どうぞひとつそういう見地と言うかね、に立っての私は金光様の御信心であって本当の信心という事が言えるのじゃなかろうかと思います。
      どうぞ。